2012年1月28日 (土)

切迫!首都東京大地震「その日」のシナリオ予想 中越人として備えよう

東日本大震災以来、若干落ち着いた感のあった東日本の地震活動ですが、ここにきて特に関東周辺の地震活動が活発化しています。今日も山梨茨城で比較的大きな地震が発生。思えば東日本大震災の数週間前には東北でやや規模の大きな地震が頻発し、ニュースでもとりあげられていたことを思い出します。

みなさまご存知のように、地震の科学的予知は極めて難しく、このブログで近日中に地震が起きることを「予言」しているわけではありません-「○月×日に地震が起きる」といった話は当然、100%デマですのでうのみは禁物-が、切迫性はますます高まっています。

8年前にふるさとを新潟県中越地震(中越大震災)に襲われた一人として、「その日」には中越人、長岡人として恥ずかしくない、冷静な行動をとりたいものです。

あくまでも個人的な見解ですが、来たるべき"Xデー"…「その日」東京は、3.11の東京-あの日も、東京は大混乱でした-とどう違った状況になるのか、想定されるシナリオや対策などを、中越地震の記憶をたよりに、もう一度-偏見を交えつつ-簡単に考えてみたいと思います。

予想1) 地震発生直後から大規模な停電が発生する。
東京では、3.11の直接的な被害による停電はほとんどありませんでしたが、「その日」には、東京は大停電となるでしょう。3.11では、すぐに会社や家庭のテレビをつけ、情報を得た方が多かったと思います。震度、震源、被災地域はどこか…。テレビをつけられず、これらの重要な情報を得にくくなる危険性があります。中越地震の時、長岡でも大規模な停電が発生し、実家の家族は筆者からの電話で初めて新幹線脱線のニュースを知った、と言っていました。携帯電話も、「緊急地震速報」の受信を最後につながらなくなる、ということがないとは言えないと思います(通信の輻輳や基地局の被災が予想されるため。ただし通話回線よりは使えるでしょう)。一方、ブロードキャストである「ワンセグ」は比較的受信しやすいかもしれません。

予想2) ガス、水道が被災直後から使えなくなる。復旧は長期化する。
電気だけでなく、ガス、水道も止まることになるでしょう。中越地震の時、私の実家のある地域ではおおむね「水道は無事、電気は翌日~翌々日復旧、ガスは震災8~9日後に復旧」というイメージでした。特にガスは電気よりも復旧が大幅に遅れることになるでしょう。長岡では当時、煮炊きのためのカセットコンロが重宝しましたね。日ごろから用意しておく価値アリです。風呂に入れなくなりますから、手や体を拭くウェットティッシュも忘れずに。

予想3) 交通網が物理的に寸断され、帰宅困難が深刻になる。
3.11では首都圏の交通機関は一時マヒしたものの、早いところでは当日の深夜から順次運転が再開されました。一方中越地震では新幹線はじめ、鉄道や幹線道路が物理的に破壊され、復旧に大変な時間がかかりました。「その日」にも東京の交通網はおそらく物理的な被害を受けますので、完全復旧までには数日から数か月を要するでしょう。歩いて帰ろうにも、道路にはがれきが散乱、夜になれば停電で街灯も消えています。さらに、本震の震源が近ければ帰宅中に大きな余震が襲う可能性も高く、徒歩での帰宅は3.11とは比べものにならないくらい困難で、危険なものになるでしょう。最悪、この段階で多くの死者が出るような"二次被害"が発生する懸念もあります。もっと真剣に、「帰らない」被災対策を考える必要があると思います。

予想4) 固定していない家具が倒れる。ビルや家屋内部の被害が深刻になる。
これは中越地震で皆さん経験されたと思います。寝室や居間を中心に、まだ対策をしていない方はL字金具や突っ張り棒で家具の固定を!

予想5) 「○日後に、都心を震源にもう1回大きな揺れが来る」というデマが飛び交う。
「その日」から数日~数週間は、大規模な余震が発生することが予想されます。しかし、これは地震活動から統計学的に予測されることであって、発生日付や震源を予測することは、現代の科学では「絶対に」できません。中越地震の時にも地元では上のようなデマが流れたといいます。余震への警戒と、デマを信じることは全く別。冷静に!

予想6) 「その日」から1年後、東京湾で「フェニックス」が打ちあがる。
ここまできていきなりなんじゃそりゃですが…。
あなたも、わたしも、「その日」、今度はこの東京で突然"被災者"という肩書きを背負うことになります。人口密集地での地震被害は極めて深刻ですが、近隣の多くの被災者の助けあいが復興への大きな力になります。東日本大震災後のこんにち、追いうちをかけるような首都の被災は、この国にさらに深刻なダメージを与えることになるでしょう。けれどがれきから立ち上がる人々の姿こそ-長岡がそうであったように-ある意味で日本の歴史そのものです。そのときにはレインボーブリッジより長いフェニックスをみんなで打ち上げて、今度は都民の涙腺を決壊させてやりましょう(笑)。

冒頭で、地震の予測は不可能と述べましたが、「その日」が極めて近いうちにやってくる、ということだけは科学的事実です。しかし、備えることは、できます。そのためにも、日ごろから地域の防災活動にも関心をもちましょう!

(リンクは毎日.jpによる記事へのものです(2012/1/28現在))

2012年1月 6日 (金)

東京新潟物語

皆様、あけましておめでとうございます。
「全然隔週刊じゃねーねっか~」というお叱りを一部で受けている(ような気がする)当サイトですが(馬耳東風)、今年もムダな知識とちょっぴりのノスタルジィを交えつつ、やわやわとお送りしてまいります。

さて。タイトルにあげたのはあの「吉乃川」さんの2011-2012年間広告キャンペーンの呼称。新幹線の車内でご覧になった方もいらっしゃるのでは。当初はさして気になっていなかったのですが(すみません)、今回、最新(冬)バージョンのキャッチコピーにおもわず目が行ってしまいました。

東京が晴れた日は、
新潟は雪だ。

うーん、シンプル。そして、Nagaokan Tokyoite的にはかなりぐっとくるコピーであります(それ以外の皆様にぐっとくるかは不明)。
ともあれ、冬晴れの空と、乾いた北風の中で、その風が渡ってきたであろう三国の山々の反対側の、故郷の空模様に思いをめぐらさない長岡人は、いないのではないでしょうか。
ちなみにこの広告、新進の若手女優・吉本千紗さんふんする「越後長岡で育った純粋な女性が、憧れていた東京に就職して暮らす中で、今まで見過ごしていた雪国の自然の純粋さ、家族のつながりを大切にする温かさ、そしてお酒のすばらしさに気づき、成長していく」(同社サイトより)というストーリーなのだとか。

広告は吉乃川さんのサイトから見ることができます。
http://www.yosinogawa.co.jp/tokyoniigata.htm

というわけで、2012年のスタートは、帰省の新幹線で見かけた広告という、またまた超コアなネタからでありました。

P.S.どうせなら「東京新潟物語」じゃなく思い切って「東京長岡物語」にしちゃえばよかったのにぃ。

2011年12月 4日 (日)

FLY ME TO NAGAOKA!

ということで、飛行機から見える長岡、という、今回も基本的にどうでもいいお話をひとつ。

成田からヨーロッパ方面ゆきの飛行機に乗ると、たいてい新潟県の上空を通過して日本海に抜け、シベリアを経由して西に向かいます。つまり、成田を出てしばらくすると、長岡市付近の上空を通過することになります。
というわけで先週、ヨーロッパ行きの飛行機から長岡を激写してみました(笑)

下の写真をごらんください。画面左上から右に流れているのが信濃川です(手前は三条市などを流れている五十嵐(いからし)川)。画面中央が長岡市街。雪をかぶった東山連峰も見えます。よーく見ると悠久山や長生橋、与板橋、小千谷の山本山の貯水池も!(クリックすると拡大します)
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…といってもわかりづらいので、説明をつけてみました(こんな感じでしょうか。間違えていたらすみません…ご指摘ください)。いかがでしょう?
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なお、進行方向は画面右方向なのですが、航路上の都合なのかこの写真のように長岡市の東側を飛ぶパターンが多いように思います(新潟市は結構ドンピシャで真上を飛びます)。ともあれ、飛行機からふるさとのまちが見えるのはちょっと感動モノ。

それにしても、「平成の大合併」の影響で、川口から栃尾、与板、大河津方面まで、いまやこの写真に写っている視界の大部分が長岡市域。広くなったなあ、と実感します。そういえば長岡市の面積は約890平方キロで、東京23区(約620平方キロ)よりずっと広いのだとか。

ちなみに今回乗った飛行機では、座席備え付けのマップ画面で、こんなのも表示できました。面白い!(筆者的には。)
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2011年11月20日 (日)

長岡人的東京散歩…三田

久しぶりのこのコーナー、今回は港区・三田を歩きます。

JR田町駅から少し喧騒を外れたところに「聖坂」があります。思いのほか高低差の激しいこの坂、上って振り向くと東京タワーも望むことができますが、ちょうどそのあたりに浄土宗のお寺、「済海寺(さいかいじ)」があります。
ここは江戸初期、長岡藩初代藩主・牧野忠成が開いたお寺。以後、代々長岡藩主牧野家の菩提寺でした。といっても、残念ながら墓所に自由に入ることはできない様子。もっとも、今から30年ほど前に代々の長岡藩主の墓は長岡市悠久山に改葬されており(あの、蒼柴神社の奥のところですね)、今ここには存在しないそうです。

Imgp1243 (写真)済海寺。付近にはクウェート大使館や近代的な造りの三田中学校などがある

ちなみにこの済海寺、幕末には最初のフランス総領事館が置かれたところで、境内にはそのことを示す碑が立っていました。

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さて、聖坂を降り、田町駅と反対側にあるのがご存知慶應義塾大学。あまり知られていませんが、この慶応大と長岡には深いつながりがあるというのです。同大は言わずと知れた福澤諭吉が興した慶応義塾が元になっているわけですが、その設立間もないころ、同塾を支えた3つの藩があり、「慶応義塾の三藩」と呼ばれています。

慶應義塾の三藩(けいおうぎじゅくのさんぱん)とは、幕末~維新期に慶應義塾を支えた所縁のある3つの藩。紀州藩・越後長岡藩・中津藩の三藩を指す。入塾した藩士はのちに塾長や要職を歴任しているため、学校法人慶應義塾の基礎となっている。(Wikipediaより)

大藩の紀州や福澤の出身藩である中津藩とともに、長岡藩が名を連ねているのがおもしろいところ。もともと長岡藩は、西洋の科学や技術に強い関心を持つ藩でした(そのため攘夷思想はほとんど育たなかったといわれます)。戊辰戦争後、長岡藩は多くの若者を慶応義塾に送り、学ばせたそうです。

かくいう筆者も「三藩」の話は今回の散歩の下調べをするまで知りませんでした。
東京の街には、まだまだいろいろな「長岡の痕跡」がありそうです。

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さて、上の写真は田町方向から聖坂をのぞんだもの。ともすれば長岡にもありそうなありふれた風景ですが、筆者などはこの季節、こんなひとこまに「東京」をつよく感じます。きっと、時雨が続く長岡の街では、あまり目にしない光の具合だからかもしれません。初冬の夕暮れ、街路樹などが低い逆光を受け、石畳の歩道を往く人々の影が伸びていきます。

2011年10月23日 (日)

大迫力!「米百俵まつり」摂田屋武者行列リポート

10月8日連休で帰岡したさい、長岡市摂田屋に行ってきました。
醸造の町・摂田屋はこの日「おっここ摂田屋市」というイベントが開かれ、にぎわっていました。セッタヤ醤油(筆者も愛用しています)の工場開放などを見学した後、光福寺に向かいました。この日は「米百俵まつり」でもあり、武者行列の"本隊"出発(出陣)式が行われます。
「おっここ摂田屋市」はおそらくいろいろなところでその様子がアップされると思いますので、マイナー志向の当ブログとしては前回まで河井継之助ゆかりの高梁旅行記をお送りしたついでに、その様子をリポートします。
さて、大手通りまでを練り歩き、最終的にはかなりの規模に膨れ上がるその武者行列、意外にも出発時は20人くらいのやや小規模なもの。けれど迫力は満点でした!

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ここ光福寺は戊辰戦争当時、長岡藩の本陣が置かれた場所です。最後まで中立和平を模索した継之助も西軍(官軍)との最終交渉(小千谷談判)にはここから出かけています。交渉が決裂し、もはや開戦のやむなし、という悲壮な決意を、継之助はこの場所で藩士らに宣言したのでした。司馬遼太郎の小説『峠』でもこれまた印象的に描かれている場面です。

出発式では、その様子がドラマチックに再現されます。西軍の無理をとうとうと語る継之助。そして、最後に当時の最新兵器「ガトリング砲」が火を噴きます。「これがガトリング砲の威力じゃ!」西軍、おそるるに足らず!義は我らにあり!鬨(とき)の声を挙げて、本陣が出発してゆきました。

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もちろん、みなさまご存知のように、それは長岡の町を火の海にする、悲惨な敗北の序章でした。隊列を演じる人々も、それを見守る私たちにも、少し複雑な思いが交錯する…ような気がしたのは筆者だけでしょうか。

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…といって、屈従は倫理として出来ることではなかった。となれば、せっかく築いたあたらしい長岡藩の建設をみずからくだかざるをえない。かなわぬまでも、戦うという、美的表現をとらざるをえなかったのである。(中略)
武士の世の終焉にあたって、長岡藩ほどその最後をみごとに表現しきった集団はない。運命の負を甘受し、そのことによって歴史に向かって語りつづける道をえらんだ。…(司馬遼太郎)

みなさまも、機会があればぜひ一度見てみてください!

ちなみに、上記の司馬遼太郎の文章は長岡市の南端「越の大橋」の西詰にある碑文の一部です。これもしよろしければ一度全文をごらんになってみてください。泣けます^_^;

P.S.中越地震(中越大震災)から今日で7年。長岡では追悼・復興の行事が行われたようです。東日本大震災の発生した今年は、また特別な意味を持つ10.23になってしまいました。改めて、災害に遭われた多くのみなさまにお見舞い申し上げます。

2011年10月 1日 (土)

特別企画「TRASH POT -江戸~備中松山旅行記-」2

前回の続きです。

通常、城下町というのは、城を中心として周囲に武家屋敷、その周りに町人街、さらにそれを囲んで田園地帯、というように同心円状に形成されます。しかし、松山(高梁)は高梁川沿いの狭く長細い土地に発達したため、城→武家屋敷→町人街と、いわば階段状の構成になっているのがおもしろいところ。

さて、松山での継之助の動きを追ってみると、まず
『文武宿「花屋」に宿を取る。(塵壷、以下同)』
とあります。
文武宿、というのは文字通り、遊学や修行に訪れた人が泊まる宿のこと。ここで彼は会津藩士の土屋鉄之助や秋月悌次郎らと出会いました。花屋は町人街と武士町を分ける紺屋川のほとりにあったそうで、現在は小さな郵便局が建っています。Imgp0884(写真)花屋跡。入口右側に「花屋跡」の立札があります。この郵便局にはかつて若き日の故・水野晴郎氏(映画評論家)が勤務していたとか。

継之助はここにしばらく逗留しますが、後日の日記に
『昼後、案内ありて、学問所へ土屋と共に出る。大勢列座、色々の談に及ぶ。夕刻、帰宿。夜は同宿三人と談ず。』
という記述が出てきます。留学を松山藩に許され、入校式のような会に出席したのでしょうか。ここで出てくる学問所は、藩校「有終館」。川幅狭い紺屋川を挟んで花屋の向かいにあります。前回も書きましたが高梁の町はことほどさようにコンパクトで、どこも目と鼻の先、という感じです。また、この一角は現在、風致地区に指定され、とても風情のある町並みになっています。ともあれ幕末、山あいの小さな城下町で時代にせかされるようにここを行き来した、継之助らの足音とざわめきが聞こえてくるようでもあります。Imgp0888(写真)有終館跡。現在は幼稚園になっています

『昼後、山田先生の出掛り宅へ招かれ、土屋と共に行く。』
紺屋川沿いを上流にこれまた少々、5分ほど歩くと、方谷の出掛り宅跡を示す小さな碑が立っていました。方谷は出仕のため月の半分をこの出掛り宅(通称:水車)で、残りを長瀬の居宅で過ごしていました。継之助も長瀬に出向いたり、この水車に出かけたり-あるいは、この間の「三里計り」の道を同行したり-して、方谷の謦咳に接していたようです。Imgp0885(写真)紺屋川風致地区のようす。

『改革は、古き者は老いて死し、若年の者は成長し、十五年位にて初めて立つ物。急にすると朋党の憂などあり、急には出来ざる事なり。さり乍ら、初めより心を用うるは申す迄もなき事』『十ヶ条あれば、段々易きより始め、追々致すべき』…塵壷には、継之助が方谷の言葉をさかんにメモした様子がうかがえます。

さて、意を決して徒歩でこんどは坂道を約4km、松山城をめざしてみます。
汗だくになりながらようやくたどり着いた松山城は、日本に12ある現存天守のうち、唯一の山城。よくこんな山奥に城を建てたものだ、というくらい、中世の要塞の雰囲気を醸し出していました。登城は大変だったろうな…と思いきや、ふもとに屋敷があり、江戸期以降は藩主の起居ほか藩政はそこで行われていたそうです(このようなタイプの城を「根小屋式」というそうです)。Imgp0893 (写真)継之助も見ることができなかったであろう松山城のクローズアップを記念撮影。
Imgp0897(写真)松山城に向かう途中の山道で見つけた、「大石内蔵助腰かけの岩」。元禄6(1693)年、松山藩は世継ぎがなくお家取り潰しとなりました。この際、幕府側で城の引きとりを担当したのが赤穂藩。かの大石内蔵助が、その際に腰かけ休息した石だそうです。私も腰かけ、しばし内蔵助になりきって「わが藩もかかる仕儀にならぬよう、心せねばな」とか心の中で呟いてみたりして…。ちなみに「松の廊下」をうけて赤穂藩が取り潰しになるのはその7年後のことです。観光バスや車では決してお目にかかれないスポット。
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(写真)武士町のエリアにある、小堀遠州の手になると伝えられる「頼久寺庭園」。借景の奥行き感とどことなくモダンなテイストの枯山水が素晴らしい。京都のように観光客が次から次へ…ということもなく、ただただぼんやりと眺めていました。贅沢な時間を満喫!

駆け足の旅でしたが、実際に訪れてみて、備中松山の城下に、継之助が長岡の城下を重ねうつしに見ていたのだということがよくわかりました。
方谷は、継之助が備中松山を去る際、乞われて「王文成全集」を譲り、巻末に文章をしたためました。その中に、次のような記述があります。
「長岡の河井氏、来りて予が家に寓す。(中略)志は経済(経世済民)に鋭く、口に時功を絶たず。頗る事に区画を為すを喜ぶ者のごとし。今、斯の書(王文成全集)を獲て、之を読む。吾れ又、其の利を求めんと欲して、反って害を招かんことを懼るるなり。(中略)則ち志を経済に馳せずして、徳、おのずから物に加う。口に事功を唱えずして、業、おのずからおのれに立つ。」
師が、継之助の怜悧で一徹なありように感心しながらも、その姿に一抹の不安を抱いていたことが見てとれます。その後の継之助と、そして長岡の運命は、みなさんご存知のとおりです。

ちなみにこの塵壷、実は現物の高精細なスキャン画像がネットに公開されていて、誰でも読むことができます。 (「塵壺」長岡ネットミュージアム(長岡市立中央図書館))

(本文は東洋文庫「塵壺」より一部仮名遣いや文言の追加などして引用しました)

2011年9月24日 (土)

特別企画「TRASH POT -江戸~備中松山旅行記-」

今回は特別企画として、岡山県高梁市を訪ねてみたいと思います。
高梁は、江戸時代、備中松山藩の城下町でした。ここはかの河井継之助が、人生最大の師と仰いだ「山田方谷」をはるばる江戸から訪ね、その教えを乞うた地。継之助の旅日記「塵壷」を片手に、東京駅から「のぞみ」に乗り込みました。
車窓には初秋の富士山が美しい山容を見せ始めます。富士山が見えるとテンション上がるのが越後人。ただ継之助が旅をしたのはちょうど梅雨の時季で、富士はあまりよく見えなかったようです。「でも、せっかくだから綺麗な富士を見たい…」地元の人に富士山のビューポイントを聞き、「けれど天気が」「いや、もう少し待てば晴れるかな」などとしばし行ったり来たりだった様子が日記に書かれています。その気持ち、わかるわかる(笑)。『実に三島より此の方、富士のため、女子のごとき不決断となり、自ら嘆息す(塵壷。以下同)』。その後、当時は増水で渡るのに難渋したという大井川も一瞬で駆け抜け、「のぞみ」は西へ。
岡山から伯備線に乗り換え、高梁川沿いを北上します。塵壷に『段々山へ入りても、山高くもならず、其の中の少しの開けには家あり』と記されている通りの風景。

『松山も其の広き所なり。何れも四方山にて、十町あるは覚束なし。』たどりついた高梁の町はまさにそんな感じで、四方に小高い山が迫り、予想以上にコンパクトな印象でした。

市内散策はあとまわしにして、伯備線でもう少し北上し、「方谷」駅を目指します。地元の強い希望により特例として人名がつけられたという方谷駅は、かつて山田方谷の住居・私塾があり、継之助もまずここを訪れたのでした。『松山を立って、やはり川に添うて三里計り入り、漸く山田(方谷)の宅へ、昼頃到る。いよいよ狭き所なれども、前の如く様子は変わらず。』小さな無人駅ですが風情のある駅舎で、傍らに方谷の業績をたたえる石碑が立っていました。また近くには「見返りの榎」があります。のちに継之助が方谷のもとを去る際、その下で振り返ってひざまずき、三度礼をしたという榎の木が、今も残っているのです。

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「見返りの榎」。河井継之助が振り返った方谷旧宅方向をのぞむ。奥の線路はJR伯備線。

榎の下に立つと、当時の継之助の胸中に思いをめぐらさずにはいられません。方谷に深く頭を下げながら、ここで得た教えが、何のために役立つと確信したのか。彼には明白だったはずです。それは何よりも、長岡藩のためでした。継之助は、風雲急を告げる時勢の中で、「日本のサムライ」であることよりもまず、どこまでも「長岡のサムライ」であろうとしたのでした。

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方谷駅。国有形文化財に登録されている

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方谷駅前に立つ「山田方谷先生旧宅 長瀬塾跡」碑。

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方谷駅にある説明板。もちろん河井継之助にも言及が。

備中高梁駅に戻り、高梁市歴史美術館へ。山田方谷の書や肖像、そして備中松山城を説明するジオラマなどがありました。歴史上、高梁は宇喜多、毛利、尼子など、中国地方の有力大名の勢力線がせめぎ合うホットな土地だったことがわかります。

歴史美術館を出るともう夕方。山がちの高梁は日暮れがひときわ早い!駅周辺にはあまり飲食店がないので、思うところあって近くのスーパーへ。期待通り、総菜コーナーに岡山名物のちらしずしが半額のシールを貼られ、売られていました。あわせてビール(キリンビール岡山工場直送だそう)や地酒、蒜山高原牛乳のヨーグルトなども忘れずに買い込みます。ところで-全然知らなかったのですが-このスーパー、映画「県庁の星」のロケ地とのこと。このあたりが織田裕二と柴咲コウが一緒に歩いてたところだなあ、などと思いながら、スーパーの袋を片手に宿に戻り、部屋で夕食です。

というわけで、予想外の2回シリーズとなってしまった本企画、続きは次回!

塵壷―河井継之助日記 (東洋文庫 257)

2011年9月13日 (火)

通勤おつかれさま…そこに意外な「同郷人」

首都圏の節電ダイヤも大半が解除されました。毎日満員電車で通勤のNagaokan Tokyoiteのみなさま、今日もおつかれさまです。
Nagaokanではないですが、JR山手線や京浜東北線などでみんなのために一所懸命がんばってる「新潟出身者」がいますよね。

それは…そう、当の電車車両たち。

旧新津市(新潟市秋葉区)には、JR唯一の鉄道車両工場があり、東京を走るJRの新型車両の多くはここで製造されているそうです。つまり”新潟出身”というわけ。Wikipediaによると、JRだけでなく、小田急や都営新宿線、相鉄線の車両も一部ここでつくられているのだとか。
新潟で産声を上げた車両たちは、まず越後の鉄路に(信越線だそうです)生まれて初めての一歩を踏み出し、試験走行を重ねます。その試験に合格すると、国境を越え、晴れて東京での営業運転に投入されるのだとか。実は静かに毎日毎日、目立たずみんなを支えて頑張っている…なんだかそんな越後人気質の鑑を見るようです(笑)。
これらの車両には、車端の壁に、号車表示などと一緒に製造所のラベルが貼られています。そこに「新津車両製作所」の文字をみかけたら、「いっしょにがんばろうて♪」と心の中で声をかけてあげてください。

さて、新潟人はふるさと産のお米やお酒にこだわっている方が多いような気がします(筆者もその一人)が、以前も書いたように、JRの場合、首都圏の電車を走らせている電力も新潟産の場合が多いので、”彼ら”も結構、「ふるさとのものを食べて元気をつけてる」派だったりして…(いいすぎー)

リンク:JR新津車両製作所

2011年7月30日 (土)

ローカルネタなら…

暑中お見舞い申し上げます。
今日、仕事で都内のある有名大学の教授とお会いしました。
お会いするのは初めてだったのですが、先生の大学も私の職場も千代田区内なので、いつものように名刺交換を済ませ、ひとしきり近隣ネタなどお話をした後、辞去しました。

で、自分のデスクに帰ってその先生の名刺を見直すと、研究室とご自宅の住所が併記されていました。そこにあった住所が…長岡市内でした。しかも私の実家の2つ隣の町内!個人情報なので書けないのが悔しい~!というくらいご近所でした。

うーん、もっと早く気付けば千代田区ネタじゃなくて出身小学校区内ネタで盛り上がれたのにー!!

でももしかして先生、「長岡-東京通勤大作戦!」実践中!?
機会があればお伺いしたいものです。

教訓:もらった名刺はその場でよーく見るべし。ビジネスの基本ですね。

2011年7月25日 (月)

地上波アナログ放送終了。さらば、古き良きテレビの時代

さきほど、午後23時59分。
東京の地上波アナログテレビ放送が停波となりました。
ザッピングしたところ、フジテレビ、日本テレビは最後にフィラーを挿入していたようです。

残念ながら新潟各局のその瞬間は見ることができませんでしたが…。

   *   *   *

「ほら、U(ユー)ばっか見てないで勉強しなさいて!」
という母親の声が記憶によみがえりました(笑)

フラッシュバックするなつかしい映像たち。
『テレビスポットコンクール!』(BSN)
『うーみーが見ーえーるー ベランダでー♪』(NT21(現ux))
『県民茶会は長岡市悠久山公園…』(NST)
『続いて、児童画廊です』(NHK)
『Yes My スキースクール!』(TNN(現Teny))

「茶の間」という空間に、テレビがあった時代。「チャンネル権」という言葉があった時代。
「昨日、××見た?」が、朝の教室の合言葉だった時代。

デジタル放送によるワンセグや複数番組同時録画レコーダーの普及などで、テレビが同じ時間や世相を共有するアイテムであった時代は確実に終わりを告げることになるでしょう。

そもそも、デジタル放送自体が視聴には放送データの「解凍」を必要とするため、受像環境によってタイムラグが生じるという、原理的に「同時性」とは相反するシステムであることは象徴的です。デジタル化で、今後テレビはますますいわば「YouTube」化してゆくでしょう。つまり、個人が、好きな時に、好きなものを見る、というのが、基本的なテレビの視聴スタイルになってゆくはずです。

筆者など、東日本大震災で折れ曲がってしまった東京タワーの頭頂部(地上波アナログ放送の発信部)を目の当たりにした時も何か因縁めいたものを感じてしまいましたが、ともあれ、テレビも「古き良き時代」を超えて、変わってゆかなければならない、ということなのでしょう。

«夏草やスペースシャトルは夢の跡